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半世紀の時を超えて今伝えたい ヤキマに生きた日系人の物語

ワシントン州中部に位置するヤキマ。戦前までは日本町が形成され、多くの日系人パイオニアたちが暮らしていました。 しかし1942年、郊外のワパトにあった日本町を含むヤキマ地域から、1,000人以上の日系人が強制収容所に送られました。父方の家族がワイオミング州ハートマウンテン移住センターに強制収容となったパティー・ヒラハラさんは、祖父と父が残した当時の写真を発見。現在、ヤキマの日系人の体験を語り継ごうと精力的に活動しています。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉

 

アメリカにおける日系人の遺産を守ることは
日系4世である私の使命

ヤキマの日系人の歴史を伝える写真

第二次世界大戦の開戦で、当時のルーズベルト大統領は「大統領令9066号」を発令し、日系人を強制収容所に移送し た。日系人はそれまでに築いた財産や家、土地を急いで売り払わなければならず、多くを失うことになった。パティーさんは、強制収容の話を家族から詳しく聞いていたわけではなかったと話す。「私の家族の場合、パシフィック・ホテルなど不動産を所有していて、強制収容時にその処分を弁護士と不動産業者に頼んでいろいろとやってもらっていたと聞いていました。国立公文書館で私の家族について調べると、家族が住んでいた家の借り手に関するハートマウンテン、ヤキマ間の通信記録があり、そこから、その弁護士と不動産業者の名前がわかりました」

ヤキマの日系人の歴史を伝えたいというパティーさんの情熱に火が点いたのは、祖父のジョージさんと父のフランクさんがハートマウンテンで撮影した、2,000枚にも上る写真のネガを見つけたことがきっかけだった。1992年、祖父母の引っ越しを手伝いにヤキマに行ったパティーさんは、屋根裏に上がり、「ハートマウンテン」と書かれた小さな青い箱を見つけた。中には、850枚の写真のネガが入っていた。

パティーさんの祖父・ジョージさん、祖母・ コトさんと、まだ赤ん坊の父・フランクさん。 1926年、ヤキマにて
(写真提供:アナハイム市立図書館ヒラハラ・ ファミリー・コレクション

「1982年、ハートマウンテンにいた人たちの初の親睦会がロサンゼルスで開かれ、父はそこで写真を公開したんです。写真の存在自体は、その時に知りました」。しかし、パティーさんは、これほど多数の写真があるとは聞いていなかった。フランクさんが2006年に亡くなった後の2010年には、さらに1,200枚の写真のネガを見つけた。「父の自宅のクローゼットにあり、ケースに入っていて保存状態は良好でした。父が高校生の時の写真も、この中にありました」

フランクさんがハートマウンテンに送られたのは16歳の時だった。その後、1944年に高校を卒業。卒業アルバムの写真編集員で、生徒会委員も務めていた。「父と祖父は、趣味で写真を始めました。ハートマウンテンに着いたふたりは、歴史を記録する良い機会だと気付いたのでしょう」。 ジョージさんは収容所の外の畑で働いてお金を貯めて中古車を買い、収容所の外に出て写真用品を購入したり、イエローストーンほか、ハートマウンテン周辺の景色を撮影したりしていたという。

ジョージさんはまた、ハートマウンテンでバラック小屋の端に写真を現像する暗室と撮影室を秘密裏に造った。高さは1.2 メートルしかなかったが、さらに60センチほど地面を掘り、高さ1.8 メートルの空間ができた。ジョージさんは電気関係の仕事をしていて、ヤキマ仏教会の会館を建てた時に電気工事を担当したほど、もともと電気のことに詳しかった。物資が限られた中でうまくやりくりしてできた暗室は、ほかにはない精巧な造りだった。「祖父は証拠をつかまれないように細心の注意を払っていました。祖父が引き伸ばし機の前に立っている写真はありますが、それがどこなのかはまったくわかりません。ただ、国立公文書館に保存されている通信記録によれば、ハートマウンテンの役人は状況を把握していたのではないかと思います」

 

強制収容を語る重要な資料に

当時の貴重な写真を思いがけなく見つけたパティーさんは、「私の家族の写真で、ノースウエストの歴史の空白を埋めることができる」と意気込んだ。「ヤキマの日系人パイオニアのことを知らないアメリカ人は多いんです。ヤキマは独特の歴史を持つ地域。ハートマウンテンを出て行った1,018人の日系人のうち、ヤキマに戻ったのはわずか10パーセントでした。私は、第二次世界大戦前のヤキマバレーの日系人の歴史を広く伝えることに力を注ごうと決心しました」

戦前のヤキマには 1000 人以上の日系人が住んでいた 写真提供ヤキマバレー博物館ヒラハラファミリーコレクション

パティーさんの家族を含め、戦後にヤキマバレーに戻った日系人は少数にとどまる。パティーさんは、ヤキマに住む日系人たちと協力して、ヤキマの日系人史を伝える取り組みを続けた。その結果、日系人たちの話が地元紙『ヤキマ・ヘラルド・リパブリック』を始め、全米のメディアで取り上げられるようになった。パティーさんは、自身が暮らすカリフォルニア州アナハイムでも、第二次世界大戦前後の日系人パイオニアやアリゾナ州ポストンへの強制収容のことを知ってもらおうと、1999年から市と協力して活動している。こうしてアナハイム市立図書館は、2018年に国立公園局日系アメリカ人強制収容地助成金を受けることになった。この助成金により、アナハイムのMUZEOに460平方メートルもの展示スペースが設けられ、「私はアメリカ人:恐怖時代の日系人強制収容―アナハイムの日系人パイオニアの知られざる歴史」展が、8月 25日(日)から11月3日(日)まで開かれる予定だ。

パティーさんは写真の寄贈も積極的に行っている。ヤキマバレー博物館のほか、フランクさんが1945年から在籍し、1948年に卒業したワシントン州立大学(以下WSU)には2,000枚以上の写真を寄贈。フランクさんは、WSUで陸上競技部に所属し、1946-1947年度の運動部委員にも選出された。「運動部委員は学生による投票で決められます。戦争が終わった翌年に日系人として選ばれるなんて、すごいことです」。また、写真はオレゴン日系基金にも寄贈され、その展示と共にポートランドに帰還した日系人についての話を今に伝えている。

ヒラハラ家が所有してい たパシフィック・ホテルの前 に立つ 2 人の男性
(写真提供:ヤキマバレー博 物館ヒラハラ・ファミリー・ コレクション)

パティーさんの取り組みには大きな反響があった。2018年4月には、WSU同窓会から名誉卒業生賞を受けた。「写真を寄贈したことにより、WSUはアメリカにおける日系人強制収容の研究分野で中心的存在となりました。これは、WSU卒業生でない私がWSUから受けられる最も名誉ある賞です。また、1966年に授与が始まって以来、初の日系アメリカ人受賞者でした」。そして、ヤキマ郡ユニオンギャップで同年8月に行われた、開拓時代の農業や当時の生活の様子を紹介するイベント「ワシントン州パイオニア・パワー・ショー」で、パティーさんは総指揮者に任命された。「祖父も1987年に同じ栄誉を受けました。おそらく祖父はこの栄誉を受けた最初の日系アメリカ人で、私は2人目です」

 

ヤキマは第 2 の故郷

パティーさんの父方の曾祖父母、祖父母は、ヤキマにあるタホマ墓地に今も眠る。「一家2世代が埋葬されているヤキマに行くと、第2の故郷に来たような感じがします」と、アナハイム育ちのパティーさんは語る。ヤキマに来た日系人パイオニアたちが自分たちの名を後世に伝えようと、その一画を購入していたのがタホマ墓地だ。

実は、内陸にあるヤキマ地域では当初、強制収容は実施されないことになっていた。しかし、「人種差別熱をあおり立てて日系人を強制収容所に送るよう要求すれば、競争相手を消すことができる」という農家の風潮が高まり、ヤキマの日系人コミュニティーにもその矛先が向けられた。「もし強制収容がなかったら、ひょっとすると今では大きなコミュニティーになっていたかもしれません」とパティーさん。「写真を寄贈したヤキマバレー博物館で2010年に展示が始まると、州内各地から人が訪れるようになりました。このようなコミュニティーがあったということに、みんな驚いています」

パティーさんは、これからもヤキマの歴史が語り継がれて欲しいと願っている。「ヤキマの歴史を知る人はごく少数です。アメリカにおける日系人の遺産を守ることは、日系4世である私の使命。歴史を保存する取り組みを次の世代にもつなげたい、それが今の私の夢です」

私の家族の写真で、ノースウェストの歴史の
空白を埋めることができる

 

パティさん左ワシントン DC のスミソニアン協会に一家の遺品を寄贈2017 年デービッドスコートン会長と スコートン氏の個人コレクションの前で写真提供スミソニアン協会

パティー・ヒラハラ(Patti Hirahara)■ヒラハラ家の写真を集めたヒラハラ・ファミリー・コレクションの調査と展示監督を、和歌山県、ヤキマバレー、ワシントン州立大学、オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州アナハイムで行う。ヤキマバレー博物館、オレゴン日系レガシー・センター、アナハイムでの展示制作に貢献。ヒラハラ家の遺品を、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館の「不正を正す―日系アメリカ人と第二次世界大戦」展に寄贈し、今年はハートマウンテン・ワイオミング解説センターに貸し出すことが決まっている。