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ディープに知る!パイクプレース・マーケット 歴史と今

日系農家とパイクプレース・マーケット

パイクプレース・マーケットと日本人は深いつながりがある。1941年に日系移民が強制収容されるまで、マーケットで農作物を販売する農家の約3分の2が日系移民農家だった。曽祖父と祖父が1900年頃から現在のサウスセンターモール周辺で酪農を営み、1920年頃からはレントンの現ボーイング社工場敷地で野菜農業を営んでいたディー・ゴトウさんに、当時の日系移民農家の繁栄とパイクプレース・マーケットとの関わりを聞いた。

ディー・ゴトウ(Dee Goto)さん
オレゴン州東部で農業を営む日系家庭で生まれ育つ。シアトルで生まれ育った父親の勧めで1960年にワシントン大学の看護学校へ入学。1961年に、シアトル日本語学校のクラスメイトの兄であった夫のサムさんと結婚。二女に恵まれる。大学卒業後は看護婦として活躍。退職後は積極的にシアトル日系コミュニティーの歴史を伝える活動に携わる。2003年には。自身の先祖である柄巻家を中心に、広島県からシアトル地域への移民史を纏める本も出版。

パイクプレース・マーケット創設の時代は、多くの日本人がシアトル地域へ移住した時代でもあった。1896年に日本郵船が横浜とシアトル間の直航便を開始。その翌年に、ディーさんの曽祖父である柄巻実松さんはアメリカへ移住した。実松さんは当時47歳。広島に妻や子どもたちを残しての出稼ぎだったそう。「日系移民の多くは、まずは鉄道会社や缶詰工場で雇われ、資金がたまると日本町でホテルや店を経営したり、農業を始めたりしました」とディーさんは語る。人種差別で一般企業への就職は難しかったため、店舗経営や農業に成功への道を求めたという。

パイクプレース・マーケットで野菜や果物を販売する日系移民農家の男性。1930年代に撮影。
© Densho, Bainbridge Island Japanese American Community, the Kitamoto Family Collection

「多くの日系移民は農家出身で、農業学校などを卒業して高い農業技術を持っていました」とディーさん。日本人農家は野菜や果物の栽培のみならず、酪農業においても成功を収めていたという。文献によれば、1910年から1920年にシアトル地域で流通していた牛乳の約50%は日本人酪農家が生産したものだった。実松さんも酪農で成功すると、広島からディーさんの祖父を含めた息子たちを呼び寄せた。

日系移民が急速に農業で実績を上げると、白人系移民から圧力がかかり始める。北欧系酪農家団体からの働きかけで、1920年にスミス・ブラザースやカーネーションなど乳製品加工業者が日系移民からの仕入れを停止。「祖父兄弟はその頃には200頭の乳牛を飼育していましたが、市の役人が来て『これらの牛は病気に感染しているから』と言って全頭をトラックで連れて行ってしまいました」とディーさんは話す。もちろん病気というのは言いがかりだ。

酪農家として生活が困難になった柄巻一家は、レントンで野菜農家を始めた。1921年の排日土地法で日系移民の土地所有が禁止されていたため、借地での畑作りだった。生産した野菜はパイクプレース・マーケットで販売。農業と子育てで忙しい両親に代わって、まだ12歳だったディーさんの父親がトラックに野菜を積んでマーケットに売りに行っていたという。1926年には、イタリア人農家たちが日本人農家をマーケットから追放しようと請願書を市議会に提出したこともあった。しかし、グッドウィン氏の反対で日系移民農家による販売が続けられた。

農作業中の日系移民家族。撮影場所は、ユニバーシティー・ビレッジがある辺り。ここで収穫された作物はパイクプレース・マーケットで販売されていた。
© Densho, the Tanagi Family Collection

「私の先祖が成してきたことを考えると力がわきます」とディーさんは言う。「何があっても大丈夫。どんな状況にも柔軟に対応して再生すればいい」。シアトルで看護師として活躍したディーさんは、リタイアした後、夫のサムさんと一緒に柄巻家の歴史やシアトル日系移民の軌跡を伝える本を出版した。「確かに人種差別はありましたが、それを恨むつもりはありません。当時は競争の中で(白人移民も含めて)皆が生き残るために必死だったから」とディーさんはほほ笑みながら話してくれた。

取材したディーゴトウさんの夫サムゴトウさんは姉妹紙北米報知にシアトル日系移民の歴史を伝えるコミックを連載ソイソース今号に向けてサムさんがパイクプレースマーケットの歴史コミックを書いてくれた©Sam Goto

参考文献:
・Goto, S., & Goto, D. (2003). Tsukamakis of Ontario: Hiroshima, Japan to Ontario, Oregon : stories of immigration to integration.
・アジア資料歴史センター

 


岡田みなみ
関西学院大学文学部史学科3年生。IBP留学プログラムに参加し、ベルビュー・カレッジで1年間を過ごした後、日本帰国前に北米報知社で2か月間のインターンを行う。

かつて多くの日系人がパイクプレース・マーケットで活躍し、マーケットの成功を助長していたことに驚きました。様々な差別や迫害を受けても、決して諦めず、どんな状況にも柔軟に対応したからこそ、今日まで続く成功ができたのではないかと考えます。私は大学で世界史を専攻していますが、日系アメリカ人の歴史を今まで学んだことがなかったので、今回の取材で視野を広げるきっかけになりました。

島涼介
早稲田大学商学部3年生。ハイライン・カレッジで1年間の留学中に北米報知社でインターンを行う。大学卒業後は海外展開する日本企業への就職を希望している。

パイクプレース・マーケットは歴史を通じて常にコミュニティーと共存してきました。地域の農家やアーティスト、規模を問わずに全ての地域の人々に機会を与え、チャンスを手にした人たちが生き生きと働く姿を、取材を通して肌で感じることができました。パイクプレース・マーケットがなぜ観光客を魅了するのか、いかにコミュニティーに愛されているかを知ることができました。

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